平野源三郎
平野師は明治2年10月、木古内町下町の生まれ、14歳のとき、親戚筋に当たる江差の平野屋の養子となり、鴎島学校を優秀な成績で卒業したあと、家業の呉服行商に従事した。
平野師と追分節を最初に結びつけたのは、養母のリカ女であった。
元蔦屋の抱え芸妓であった彼女は、養子に迎えた源三郎が唄好きなことを知ると、新地の取締り役をつとめる小桝清兵衛の祖母に頼んで、それとなく追分を習うように仕向けたらしい。
追分を習うようになった平野師はたちまちのうちにまわりが目をみはるような上達をとげた。
そればかりでなく、後に伴奏者としてコンビを組むようになった小路豊太郎と共に尺八の演奏法も研究し、ついにはこれも修得して一家をなすに至った。
明治42年、自ら江差追分節研究会を興した師は、次いで明治44年9月、江差で行われた追分大会に優勝して、改めて地元の人々に第一人者としての貫禄をみせつけた。
そしてこのことがやがて当時の札幌の浅羽靖代議士に見出されて、上京することにつながって行くわけである。