追分節演奏大会
明治末期から大正の中期におよぶ、第一次の追分ブームをまき起こすきっかけをつくったのは、明治45年の6月から7月にかけて平野源三郎師が参加して行われた追分節演奏大会であった。
前年の秋、地元の追分大会に優勝した師は、札幌地区選出の浅羽代議士に伴われて上京し、音楽研究家として著名な田中正平博士らの主宰する演奏会に出演して大好評を博したのである。
「13日、青年会館で平野源三郎という江差の人の追分節を聴く。
江差節や在郷節などと分類してあるが、前者では「帯も十勝」、後者では「忍路高島」が数番中の秀逸で、坊間聴き馴れたむやみに甲を高めるのと違って、比較的に低い調子の、底から雪のような潮の花が湧いてザザザザッと磯をかむかと思われ、肉が締まって涛に揺られる感じがする。
20番も唄った後でなければ、思う調子が出ぬと語ったが、低い調子が却って余韻深く、やっぱり追分は潮風の吹き荒むうちを寂のある声で唄うものだろう。
浅羽靖君の追分追懐談もふさわしい色彩で、寅派家元の歌沢と兵蔵、栄蔵、長三郎等のめりやす、紅葉詣も共にしっくりとして、気の利いた取り合わせであった。」
つまり、平野師の唄は、当時在京していた他の寄席芸人の追分などとは異なり、比較的低音でありながら、充分に本場の情緒をそなえた唄として大方の好評を博したわけである。
明治の末期から大正の半ば頃にかけて各地に一斉に起こった追分ブームのいきさつを述べたが、事はそれほど簡単に、また、すべてが順調に推移したわけではないことはむろんである。
地元の人が家業を休んで参加した巡業の旅が、興行的には必ずしも成功するとは限らなかったし、本州の各地で追分講習会を開いたある名人に対して「沐猴(もっこう)の冠」(猿が衣冠を正しているさま、徳業の至らざるものをいう)などと冷評を下す向きもないではなかった。
しかし、総じてこの時代、郷土の悲境を伝統芸能を心の支えに乗りきろうとした江差の人々の意気ごみは、世人に正しく理解され、好意をもって受け入れられたようである。
そして、江差追分が、本来もっている節調の美とあいまって、広く世間に追分ブームといわれるような状況をつくり出して行ったのである。
その昔、鰊漁の盛衰に伴って、天国も地獄も経験した江差地方の住民は、現在、日本中に拡がっている過疎地の悩みを、一時代も二時代も前に、より深刻な形で経験し、それに耐えたばかりでなく、残されたものの価値を最大限に活かすことによって、新たな町づくりを果たした「先輩」といえるようにも思うが、当たっていないであろうか。