前唄・後唄
前唄が完成するまでには下海岸石崎の網元として知られた川島仙蔵師の功績が大きく、後唄の導入に当たっては関西尺八界の泰斗内田秀童師が大きな役割を果たしたといわれる。
また、これら三部構成の演唱形式を一般的に普及した功労者は、大正6、7年頃、旭川、小樽などでこの唄を披露した三浦為七郎師(砂原町掛澗出身)であるという。
ともあれ、大正時代の江差追分は、前代までの古調を脱して、より形式の整った洗練されたものになった。
その陰には、当時の音楽家、文筆家など、知識人といわれる人々の大きな支援があった。
とくに当時の新聞界の人々のこの唄に対する傾倒ぶりは驚くばかりで歌詞の新作や解説書の出版などさまざまな形でその業績を残している人が多い。