追分会館演示室「緞帳」と初代浜田喜一師
「地元では追分を唄わないという師の返事は、少なからず私を驚かせた。
しかし、引き続いてお話しを伺っているうちに、その真意は決して江差をきらってのことではなく、中央の芸能人と地方の民謡伝承者という、立場の相違から来る誤解を未然に防ごうとしているのだということがしだいに判ってきた。
華麗に演出された舞台の上で、技巧の粋を尽くして唄われる芸能界の追分と、地方の味を生命とする地元の追分の間には、自ら次元の異なる差異があっても不思議ではない。換言すれば、同じ追分関係者とはいっても、互いにカバーする分野が違うわけで、立場が違う以上、他の批評を気にする必要はなさそうなものであるが、浜田師には気になるらしい。私はそこに日頃から第一人者としての誇りと、地元の追分界に一歩譲って遠慮している自己の立場を、両立させようとしている浜田師の並々ならぬ心づかいを感じた。
その後二十数年を経た昭和57年の春、江差に追分会館が建設された際には、率先してその整備のために尽力され、社中の協力のもとに江差人の永遠のあこがれである「江差屏風」を織り込んだ豪華な緞帳を寄贈された。長い間ひめられていた師の郷土愛が一時に花開いた瞬間であった。
なお、このとき以来、会館には地元の遺族が秘蔵していた「正調江差追分節音譜」の軸装された原本が、追分節資料展示コーナーの目玉として展示されていることも付記してよいであろう。さらに昭和60年8月、浜田師が享年68歳をもって惜しまれながら世を去った後には、各方面の有志の協力によって、江差の鴎島に立派な銅像が建立され、師の名誉が永久に記念されることになったのも、まことに喜ばしい民謡界の慶事であり、近来まれな美談であると思う。」