義経伝説
文治5年の秋、奥州を逃れた義経主従は、一葉の軽舟に身を托して、はるばる蝦夷地に渡ってきた。積丹半島の辺りに上陸した義経は、まず長老のシタカベを従え、しばらく彼の地に滞在した。
やがて、シタカベの娘のフミキ姫は、許婚者のある身ながらひそかに義経を恋い慕うようになった。
しかし、大望のある身の義経は、婦女の情におぼれることなく、ある日ひそかに舟を出してさらに奥地をめざした。
狂気のように後を追うフミキ姫を、父のシタカベは邪恋に狂う女として神威岬の巌頭で斬り捨てた。
後に、かつての許婚者がその場を訪れて、赤い花の咲いた美しい草を見つけ、草笛を造って吹いてみると、自ら一曲の悲痛な調べを奏でた。
それが、今日の江差追分の始まりである。(森野小桃著『江差と松前追分』-要旨-)
より古い形のものは、志賀重昂の名著『日本風景論』にみられるように、話の後段に至って「巌頭に立ったアイヌの美姫(一説にチャレンカ)が、沖を行く義経の舟を見て嫉妬のあまり、この後、和人の舟が婦女を乗せて沖を通ったならば、必ずこれを覆没ささると、呪いの言葉を遺して身を投げた」という風になっているのがふつうである。
なお、上記のような話は、ときとして江差の鴎島を舞台に語られることもあるが、実はその方が神威岬を題材にとった話しより、北へ去る思い人の後を女が追うという「忍路高島」の歌の本来の意味に、よく合致しているようで興味深い。