三.前唄・後唄と追分節
江差追分は、あくまで本唄を主体とするものであるが、明冶23年江差に渡った伊達領水沢の虚無僧「島田大次郎」が、江差追分情緒をより高めるため越後で修得した信濃川の船唄を本唄の前付けとして吹奏したところが賛同者が多く、その後三浦為七郎、川島仙蔵らの師匠尽力により前唄が成立した。
また、大正の中頃江差に渡った神戸の尺八琴古流の「内田秀童」が、江差追分の送りとして江差三下り(オセセのセッセ)や仙台長持唄前唄の後半部を本唄の後ろに添えると曲の収まりがよいことに気づき、これを広く奨励したため一般に行われるようになったという。
以上のような経緯で前唄と後唄が成立*1したが、江差追分の真価は本唄にあるのであって、前唄は軽い気持ちで浮き浮きと、本唄の声ならし程度で、後唄は本唄のはりつめた気分を、やわらかに余韻を唄う楽しむといった風に唄うのがよい。
前唄も後唄も、本唄の情緒をより高める為のものであり、従って自由に唄われるべきで楽譜も規定に定まったものではない。
歌詞についても、本唄の歌詞をよりよくいかすものでなければならないとされている。
代表的な歌詞として
-前 唄-
国をはなれて 蝦夷地が島へヤンサノェー
いくよねざめの 波まくら
朝なタなに聞こゆるものはネ~
友呼ぶかもめと 波の音
-本 唄-
かもめの なく音に ふと目をさまし
あれが蝦夷地の 山かいな
-後 唄-
沖でかもめの なく声聞けばネ~
船乗り稼業は やめられぬ
-前 唄-
松前江差の 津花の浜で ヤンサノェー
すいた同志の なき別れ
ついていく気は やまやまなれどネ~
女通さぬ 場所がある
-本 唄-
忍路高島*2 およびもないが
せめて歌棄 磯谷まで
-後 唄-
蝦夷地海路の おかもい様はネ~
なぜに女の 足とめる
今ひとつ、江差追分の情緒をかもしだすものに追分踊り*3があり、舞台芸として今も踊り伝えられている。
言い伝えによると、文化、文政(1840~1829年)期、江差の経済的最盛期に、芸妓の間に踊り伝えられてきたもので、その由来は狩猟と漁労のアイヌが交歓する時、海辺のアイヌが唄を唄い、それに対して山猟のメノコが、熊祭の振りでこれに和して踊ったのがはじまりといわれているが、明治末に安宅座で開演した束京歌舞伎の市川弁之助(9代団十郎の弟子)の振付で櫓を押す形や鴎のとびかう姿を入れた踊りに作りかえ、舞台踊りとして芸妓の間に踊り伝えられてきた。
その後、若柳吉富三により一般大衆踊りに振付け替えをし、普及につとめた結果、大衆踊りとして愛好者が増大し、追分踊り保存会も発足して、後継者養成にあたっている。
補足資料
- *1 前唄と後唄が成立
…前唄・後唄(出展:江差追分物語) - *2 忍路高島
…忍路高島(出展:江差追分物語) - *3 追分踊り
…江差追分踊り